集落“営”のそば店が30年続いた理由とは?
おっこと亭 北原はるゑさん

おっこと亭は、地元・乙事地区に伝わってきたそば打ちを後世に伝えることを目的に、平成ニ年度の第二次村おこし事業により建設されました。
お店を切り盛りするのは、区民を中心とした富士見町民ですが、現在では、町外からのスタッフも多いといいます。
もうすぐ創業30年になるおっこと亭。
創業当時の苦労や長続きの秘訣など、現在も打ち手として活躍する創業メンバーのひとり・北原はるゑさんにお話を伺いしました。

−−創業当時を振り返って

おっこと亭の始まりは、平成元年頃から地域をもっと活性化するために区の有志が立ち上がりったのが始まりです。
「乙事(おっこと)といえばそば」、という事で、もっと区のおそばを取り上げようと農業委員や区、町などの協力も得て、第二次村おこし事業を使っておっ事亭が建設されたんですよ。
最初は「素人には無理だ」、なんて声もありましたが、まとめてくださった農業委員さんたちが一生懸命応援してくれました。長野や富士見町ではお葬式の時の締めの料理には必ずおそばを食べていたんです。お葬式があれば、近所の人が集まって、粉をこねる人、切る人、茹でる人といったように役割分担もしっかりできていたようです。
とくに乙事地区では、おそばが身近だったような気がしてします。私の祖母もおそばが好きでよく家で打ってくれていましたからね。

乙事地区のそば打ちは女性中心に続いてきましたね。乙事に嫁に来るにはおそばが打てなきゃダメ、といわれた時代もあったんですよ。

−−運営にあたり苦労した点は?

私は当初から打ち手だったんですが、最初はみんなのおそばに個性がありすぎてね。 打ち手さん達のそれぞれの個性をそろえるのが大変でした。

お客様からお金をいただくわけですから、いつも同じようなおそばを打たないといけないんですよね。 村おこしではじめたおそば屋ですけど、研究しあって仲間同士でよく協力しました。おそばの細さをそろえるだけで5年くらいかかったんじゃないかしら。
それに、女性が働きに出るということは当時はあまりいい印象はなかったんですよ。家の男の人たちは「また遊びに行くだかー」なんて思っていた人がほとんどだと思いますよ。でも少しずつお金を稼げるようになって、ご飯のおかずが少しずつ増えていくんですよね。少しずつだけど家庭にしみて(潤って)くると、男の人たちもいい顔で送り出してくれたと思います。

それも5年くらいかかりましたけどね。 当時はわたしは50代でしたが、まだまだ幼稚園生みたいなものですよ。

ここの定年は80歳なんです。 80の人でもとってもおそば打つのが上手なんです。年齢ではないですね。 今は乙事の人だけでなく、ほかの地域からもそばの打ち手が集まっているんです。このご時世、とてもありがたいことですよね。

−−はるゑさんにとっておそば、おっこと亭とは?

最初は数人だけのグループだけだったんだけど、それがよくこんなに成長したと思います。 おっこと亭は本当にいろいろなパワーを持った場所だと思っています。 そば打ちは私の生きがいですから。
子どもがおそばを美味しそうに食べてくれる顔が一番嬉しくて。おかわりしてくれる子もいますから、本当にありがたいことです。 これからもできるだけ続けていきたいと思ってます。

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